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TEAM HISTORY

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 本校アイスホッケー部は、昭和58年(1983年)吉澤忠前監督によって同好会として発足した。
 部員は2名で活動が始まり水戸アイススケート場( 平 成 7 年 度 で 閉 鎖 )で、社会人チーム水戸クラブに参加させて頂きながら氷上練習を行った。
​ 本格的な活動となったのは翌年59年からで、スケートが初めての選手ばかりであった。最初の活動は、アイスホッケーとは程遠く、靴の履き方から始まり、防具のつけ方も全くわからない、見たこともない生徒が試合をする無謀なスタートであった。
 アイスホッケーの珍しさに入部した生徒も、練習の厳しさにすぐにやめてしまう事が相次いだ。しかし、練習を積む中、アイスホッケーの面白さに魅せられた生徒が徐々に集まり、合宿や練習試合などが充実し、翌昭和60年にインターハイ初出場を果たした。
​ 結果は、1回戦八戸工業高(青森)に0対24の大敗だった。

 応援にきていた保護者から「1年前までルールも知らず、靴も履けなかったのに選手達が、よく短期間でこれだけの試合が・・・」
創部1年に拍手。アイスホッケー水戸短大附(現水戸啓明高校)目標はまず「公式戦1点奪取」。
続く昭和61年度のインターハイは、豪雪のアウトリンク(八戸)の試合の中、八戸高(青森)に完敗したが、公式戦1得点奪取の目標は達成された。(1対25)
 昭和62年度からは、年間の活動計画も確立し、夏季強化合宿・遠征・練習試合などが実施された。
しかし、練習試合には苦慮し、やはり実力がないと相手にされない苦しい時期であった。
昭和63年度は、アイスホッケー部において大きな変革の時となった。

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 国体の関東地区ブロック予選が地元サンピア日立で行われ、3勝0敗で少年初の本戦進出を決めた。
インターハイにおいても1回戦を突破し、2回戦では、強豪の八戸商高と同点ペナルティーショットの末、惜しくも敗退するが素晴らしい活躍となった。
 初出場の国体冬季大会は、1回戦を勝利し、第7位入賞を果たした。この時期より本格的に強化を図り、県外からアイスホッケー経験者が入学し、チームの力は一段と向上した。(北海道5名、八戸3名、栃木3名、千葉1名)
県内の生徒が、練習についていくことが厳しい環境でもあったが、逆に経験者の存在が刺激となり、技術の手本や目標となった。
しかし、県外入学者の生活の受け皿が確立していなかった為に、アパートの確保や生活指導について相当苦労した。
​アイスホッケーの技術の向上と試合の成績により生徒の進路も徐々に大学進学を目指すようになったのもこの頃である。

 平成平成2年度は、勝負の年として活動した。インターハイで、1回戦釧路江南高に敗れはしたものの、全国トップレベルのチームと好ゲームができるチーム力を確信し、続く国体冬季大会では、第3位という輝かしい成績を収めることができた。
アイスホッケー不毛の地でも全国で勝つことができた大きな自信となった。
​ 翌平成3年度には、初の日本リーグ選手を輩出し、関東大学リーグ1部リーグ所属大学へと卒業生が進学した。創部10年目の事である。これまでの活動を考えると、保護者の協力・理解と本県連盟の支援など、本当に頭の下がる思いであった。また、この頃から徹底的に練習試合を行った。
​ 釧路・苫小牧・軽井沢・日光、そして、平成4年7月には技術・スタイル・フォーメーションなど、全ての目標であったアイスホッケーの先進国ロシア(モスクワ)へも遠征を行った。

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 そのような中で、それまでに果たせないことが一つあった。創部当初から練習試合・公式戦などで何度となく試合を行っていた日光高校(現日光明峰高校)に、一度も勝つことができなかったことである。
 とにかくお世話になった恩返しは、試合で勝利することだと思い、一発決めうちで日光高校と何度も練習試合を行った。
 そして平成6年、ついに念願の日がやってきた。 それまで全国優勝も果たしている本州の雄、日光高校を関東大会決勝で撃破した。(7対4)
この時の感動は今でも忘れない。そして、全国制覇を決意した日でもある。​平成7年以降、本校で全国制覇を目指そうと各地から生徒が集まってきた。また、それまで県外大会は、インターハイ・関東大会・国体冬季大会だけであったが新たに実施されるようになった。​(5地域対抗高校選抜大会:現6地域対抗高校選抜大会、東日本高校選抜大会、全国私学高校選抜大会、全国高校選抜大会等)

 平成7年度で水戸アイススケート場が閉鎖され、平成8年度から練習場が、サンピア日立と高萩ビーチガーデンとなり、選手にとってつらい状況となった。
 平成11年度関東大会4位、また、12年連続出場していた国体に出場できないなど、道のりは厳しく、そう簡単ではなかったが、平成14年に待望の県営リンク(笠松運動公園)が開設され練習環境が飛躍的に改善された。
 その結果、平成15年度、国体冬季大会で、1回戦岡山、2回戦栃木を破り、準決勝で埼玉に敗れるも、3位決定戦で神奈川と1点差のゲームをものにし、国体3位入賞を果たすことができた。
​ そして、平成18年度関東大会では、準々決勝で慶應義塾高、準決勝で日光明峰高を破り、迎えた埼玉栄高との決勝戦。6対4で勝利を収め、12年ぶり、2度目の関東大会優勝を果たすと、国体準決勝で北海道相手に延長までもつれる大接戦をし、PSで惜しくも敗れるが、4位入賞を果たした。
 翌19年度には、1回戦に武相高校、2回戦に苫小牧工業高校を破り、準々決勝で苫小牧東高校に敗れるもインターハイベスト8の成績を残すことができた。
​ チームも徐々に力をつけてきたその矢先・・・

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 平成23年3月11日、東日本大震災が起こった。地震発生時の午後2時46分、授業が終わって、全員で部活のビデオをみていた時にいきなり大きな揺れに襲われた。生徒の安全を確保した後、一目散にスケートリンクの状況を確認しに車を走らせた。割れた道路や機能していない信号を見ながら、無事であって欲しいという思いとは裏腹に最悪の事態を覚悟した。
 笠松のリンクは、ガラスは割れ、天井が崩落。復旧には1年~2年かかると言われた。サンピア日立のリンクは津波の被害も重なり復旧の目処すら立たなかった。絶望的であった。
「リンクのない状況が続けば、アイスホッケーのみならず、フィギュア、スピードなど氷上競技の衰退に繋がる」との危機感から、関係者や日立市民などで、リンクの復旧を求めて署名活動を行った。また、翌年には茨城でインターハイ開催を迎える年であった。
 たくさんの方から励ましの言葉やお電話、お手紙を頂き軽井沢や栃木、神奈川など、近隣の方々から『練習試合をやりましょう』『もしよければうちのリンクを使ってください』と、声をかけて頂きました。
そういう皆さんの気持ちを汲んで我々も頑張らなければいけない。
 多くの方達の気持ちを生徒達に伝え、『みんながそういう風に思ってくれているんだぞ』と・・・。
『優しさをもらったら、優しさで返そうじゃないか』と話をした。
 下を向いていてはいけない。開き直って、この状況を受けとめよう。
​ 震災で氷を失った本校は、陸トレを中心に練習を続けながら、週末は主に栃木に遠征し、日光明峰高やクラブチーム、中学生とも練習試合を行って頂いた。
 「水戸啓明に来た事を絶対に後悔させてはいけない。」そういう思いで毎日必死に生徒達と接してきました。氷に乗れない事を言い訳せず、文句ひとつ言わずに、辛い陸トレを耐えながら、週末に氷に乗るたびに全身で喜びを表現している生徒達を見て、逆に勇気を貰ったのはこちらの方でした。
 その年に行われた関東大会では、準決勝で埼玉栄高に0対11の大差で敗れるも、3位決定戦で武相高相手に立ち上がり早々に1点を奪い、リードを守って2対1で勝利し、3位入賞を果たした。全員が控室で涙したのを今でも覚えている。
 2年間まともにアイスホッケーができなかった。しかし、2年間たくさんの方々の優しさに触れ、「ホッケーが出来る事は当たり前ではないんだ」「たくさんの人達の協力があってホッケーができているんだ」と改めて気づかせてくれた2年間でした。そして、今でもその感謝の気持ちを忘れたことはありません。

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 平成25年度からスケートリンクも復旧し、通常通り練習ができるようになった。昨年度まで、県外へ出向き練習を行う厳しい環境の中で、練習し、技術を磨いてきた事を思い出し、地元茨城で練習ができる喜びを実感したシーズンであった。
 しかし、この2年間のブランクは非常に重く、思うように結果が出ない時期が続いた。
 平成24・25年度のインターハイでは、軽井沢高校に2年連続で敗れ、平成26・27・28年度は、2回戦で3年連続北海道勢に敗れる(苫小牧工業・駒大苫小牧・釧路工業)悔しい結果となった。
 しかし、平成29年度、帯広インターハイ。
 実に6年ぶりのインターハイベスト8という結果を残すことができた。

 その後も、令和元年度帯広インターハイ、1回戦帯広農業高(12対0)、2回戦日光明峰高(5対1)を破り、ベスト8進出。準々決勝で駒大苫小牧高(0対6)に敗れるが、好ゲームを展開した。
​ 翌年に、行われた長野インターハイでは、1回戦早稲田実業第2ピリオド終了時で0対4と苦戦を強いられるも第3ピリオド怒涛の4連続得点で最後の最後まで諦めず、逆転を狙うも最終的に4対6で敗れ、悔し涙を呑んだ。
​ 令和3年度に行われた青森インターハイでは、1回戦武相高(5対3)に勝利するも、2回戦釧路工業高(2対8)に敗れる結果となった。
​ 1983年に同好会から始まり、創部から目標としている全国優勝にはまだまだ道半ばではあるが、アイスホッケー不毛の地であった茨城であっても全国で勝負できる。
茨城からアイスホッケー界を変える。そういう強い思いで現在も日々活動している。
​ 部員には、アイスホッケーを通して、目標を追い続ける強靭な精神力と、常識を持ち、社会に通用する人間に育ってほしいと思っている。
 これまで卒業生が築き上げた伝統と歴史を継承し、水戸啓明高校アイスホッケー部としての誇りを胸に、必ず目標の全国優勝を達成するために努力を続けていく。
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